環境先進企業トップインタビュー

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トップインタビュー アサヒホールディングス株式会社 寺山 満春氏

1952年、環境問題への社会的関心がまだ低かった時代に写真現像工程から排出される銀のリサイクルに取り組み、事業をスタートしたアサヒホールディングス株式会社。事業環境の変化に伴い、次々と新しい分野に挑戦し、現在は貴金属事業、環境保全事業、ライフ&ヘルス事業を中核としてグローバルに活躍しています。「革新と挑戦」の精神のもと同社の歴史を築いてこられた代表取締役会長の寺山満春氏にお話を伺いました。

家族で始めた銀のリサイクル

写真廃液に含まれる銀を回収する事業で創業されていますね。

1952年に父が銀をリサイクルする仕事を始めました。父は朝鮮窒素肥料(日本窒素肥料〈現・チッソ株式会社〉の子会社)に勤める電気の技術者で、北朝鮮の工場で働いていました。終戦当時、約30万人の日本人が北朝鮮にいたといわれていますが、北朝鮮はもとより当時管轄していたソ連にも引揚者を支援する考えはまったくありませんでした。それぞれが自力で日本へ帰国するしかなかったのです。私たちの家族も、行程約250キロメートルの半分は無蓋貨車に乗ったものの途中で強制的に降ろされました。私が6歳で、兄は8歳、妹は4歳で弟は2歳でした。父は中国に拘留されていたので、母は妹を背負い弟を胸に抱いて、兄と私は自分の足で、早朝から夕刻まで7日間歩き続けました。途中では険しい山道や鉄橋の上を歩くこともあり必死の思いだったので、今でも一つひとつのシーンを覚えています。38度線にたどり着くと、米軍がトラックの荷台に乗せてくれ、ソウルのお寺に収容されました。屋根の下で寝て食事も与えられました。今でもソウル訪問の折には、そのお寺に必ずお参りします。そして、米国の人道主義に感謝しています。出発して約2ヵ月後、母親の故郷薩摩川内市の伯母の家に転がり込みました。拘留から脱出した父は中国経由の別のルートで帰国し、故郷の鹿児島で奇跡的に家族全員が再会できました。

父はチッソに復職しようとしましたが難しかったので、チッソ時代の知人の紹介で、大阪で写真の廃液処理の仕事を始めることになりました。専門の電気とは無関係の仕事を、まったくの素人がひとりで始めました。写真やレントゲンフィルムの定着液には銀が含まれていて、硫化ソーダを使って硫化銀として取り出します。父が写真店や病院・医院を回って液を集め、家の小さな庭で母と私がその液を硫化銀にするという、家内工業がこの事業の始まりでした。私が高校生になると社員が10人ほどになり、大学受験のころには手伝わなくて済むようになりました。それでも、大学時代も長期休暇のときには必ず家へ戻り、廃液を回収するトラックの助手席に乗って、写真店や病院・医院から廃液を回収し、それをトラックの荷台に積む仕事を手伝っていました。

廃棄物処理で日本一を目指す

新たな分野へどのように事業が広がっていったのですか。

1964年の大学卒業時には、父の仕事をやる気はなかったので、化学繊維メーカーに入社し、工場の労務関係部門に配属されました。業界全体が海外の同業会社にコスト面で太刀打ちできず、私の仕事も工場の人員を削減して他工場へ異動させる計画立案や異動する本人の説得等でした。4年後に本社へ転勤して、全社の人員計画に携わりましたが、やはり人員縮小の内容が多く、私にとってはあまり面白くない業務でした。

一方、父は電気の技術を生かして、写真廃液から純度99.99%の銀を取り出すことに成功していました。これにより、富士写真フイルム(現・富士フイルム株式会社)と銀の売買取引関係ができました。1970年に廃掃法(廃棄物の処理及び清掃に関する法律)が成立し、廃液の適正処理が義務づけられ、銀を含有していない写真関係の液もすべて適正に処理することが必要となりました。フィルム製品や薬液を販売していた富士写真フイルムから当社へ販売先の廃液回収と処理について相談がありました。こうして写真関係の公害対策が発端となって、現在の中核事業のひとつ「環境保全事業」は始まりました。

1975年、有害物質を含む写真関係廃液の処理ライセンスとしては、日本初となる産業廃棄物処理業(中間処理)の認可を神戸市から取得し、全国各地から回収した廃棄物を神戸へ運搬して処理できるようになりました。

私が前職の会社を辞めて父の会社へ入社したのは、その2年前の1973年です。最初の仕事はライセンスの取得で、数多くの地方自治体の環境関係部門を訪問しました。転職にあたっては、企業規模が小さく不安もありましたが、当面のやりがいと将来の可能性を優先しての決断でした。前職の会社には10年近く勤めましたが、今考えると、随分と経営の勉強をさせていただいたと感謝しています。

公害に対する規制が、貴社の飛躍につながったのですね。

廃掃法では排出者が責任を持って処理することを義務づけています。自社処理ができなければ、適正に処理できる業者に委託しなければなりません。業界のセミナーを企画し、レントゲン技師会や印刷工業組合へ足を運んで、廃液にはどんな物質が含まれるのか、どう処理をすればいいのかを各地で説明しました。人材採用でも父の時代のように地元鹿児島出身者にこだわらず、新聞募集で新たな人材を採用しました。これまでと違い、真面目に回収業務をするだけでなく、営業担当者も法律や処理方式をお客さまに説明できなければならなくなったからです。私が入社したときの社員は20人ほどでしたが、1年後には福岡に最初の営業所をつくり、その後西日本を中心に毎年拠点を増やしました。各地で取得したライセンスがセールストークとして極めて効果的で、得意先は順調に増加しました。このころには、「業界日本一になろう」と、ことあるごとに社員に話しかけていました。

多角的な分野で貴金属事業を展開

銀以外の貴金属のリサイクルを始めたきっかけは何ですか。

1981年、日本経済新聞の一面に「ソニー、デジタルカメラの試作機発表」の記事が掲載されました。デジタルカメラが普及すると銀は使用されなくなり、我々の仕事はなくなってしまいます。これまで経験したことのない大きなショックを受けました。新聞記事にコメントしていた専門家に聞いたところ、「銀塩写真は、これから10年ほどは大丈夫だが、その先はわかりません」と言われました。技術革新の早い時代だからもっと実現は早いだろう、次の事業は何をするべきかを毎日考えた末に、ターゲットを歯科に絞りました。

病院の近くには歯科医院が多くあります。当社の営業ルートを活用できるのではないか? 歯科では貴金属を使用しているので99.99%の純銀を精製する技術を応用できるのではないか? そう考え、早速、営業開拓と技術開発の精鋭部隊を発足させました。歯の治療では、銀以外にも金、プラチナ、パラジウムという貴金属が使用されています。若い技術者を中心に試行錯誤しながら、世界の金市場で販売できる99.99%の製品にたどり着くまで約2年かかりました。国際規格である99.95%のプラチナとパラジウムはさらに半年かかりましたが、高価格での販売が可能となりました。また、業界の慣行と異なるビジネスモデルも、営業拡大の大きな武器となりました。既存の業者は、金だけを目分量で測り自分たちの相場観で現金取引をしていました。これに対して、当社は、顧客ごとに回収物すべての貴金属量を個別に分析し、新聞に公表されている相場価格を基準に、詳細なエビデンスを発行して支払う方式としました。ゼロからのスタートでしたが、このビジネスモデルがお客さまの信頼を得て、毎年シェアを上げ続け、現在は国内の60数%を占めるまでになっています。

歯科分野ですべての貴金属を精製する技術を高めることができたので、貴金属リサイクルの新しい分野への進出を始めました。表面処理(メッキ)、宝飾、電子材料、自動車排ガス触媒等です。それぞれの分野で、新しい技術の開発と独自のビジネスモデルをつくってきました。その結果、貴金属リサイクル事業全体では国内の約40%になるまでシェアを伸ばしています。しかし、取り扱っているものが各産業分野から出るリサイクル対象物ですから、その産業が成長しなければ取扱量も伸びません。近年の新興国台頭による国際競争力激化の状況では、やはり国内だけでは限度があります。

そこで1つ目の戦略として、アメリカとカナダの金・銀精錬会社を買収し、Asahi Refiningを設立しました。これまでのリサイクル対象物の精製は「セカンダリー」と称される領域でしたが、Asahi Refiningは鉱山から掘り出されたものを精製する「プライマリー」の領域です。両領域のリファイニング分野を経営することにより、視野をグローバルに広げ戦略的な経営施策を的確に打てば、世界的企業に成長すると信じています。

2つ目の戦略として、日本国内での成長産業として、ライフ&ヘルス事業を始めました。高齢化が急速に進む中で「健康寿命」はキーワードになっていますし、若者にも健康志向が高まっているからです。

「革新と挑戦」の精神で新事業に参入

ライフ&ヘルス事業は、これまでとはまったく違う事業領域ですね。

貴金属事業、環境保全事業はB to Bですが、ライフ&ヘルス事業はB to Cです。十分に知見がある分野とはいえませんが、コンシューマーの皆さんに新しいビジネスモデルを提供できればいいなと思っています。

これまでも、私が口癖のように言ってきたのは「ほかの業者と同じビジネスモデルではいけない」ということでした。価格の叩き合いを避けるには、よほどユニークな製品か、新しいビジネスモデルをつくるしかありません。2014年にグループに加わったフジ医療器は、日本で最初にマッサージ器をつくった会社で、国内シェアは約30%あります。しかし、これからも消費者にさらに満足していただくためには、次々と新しい商品を開発し、販売方法を工夫して新しいビジネスモデルを確立しなければならないと思っています。

当社は昔から「革新と挑戦」を謳い文句としてきました。常に革新の気持ちを持って、変化に対して挑戦する。事業環境が大きく変わる状況では特に大事なことだと思います。

グループ全体で価値観の共有を

2012年に企業理念と社員の行動指針を示す「アサヒウェイ」を制定されました。「この手で守る自然と資源」というスローガンが印象的ですが、なぜ企業理念を明文化しようと思われたのですか。

当時、すでに中国やマレーシア、韓国へ進出して、国内でも10以上の会社がM&Aでグループに加わっていたので、グループを横断して全社員が価値観を共有する必要がありました。そこで、当時の経営幹部約20名が合宿しながら、中期経営計画の作成にあたって会社の将来像を議論する中で、経営理念や行動規範をあらためて制定することにしました。

2018年4月には、新たにライフ&ヘルス事業が加わったので、「わたしたちは、限りある資源を大切にし、地球の環境を保全し、人々の健康をサポートします」を信条として掲げました。また、「企業として大事にすること」の項目として「グッド・ピープル・カンパニーの継承」を加えました。北米で働く人たちは「俺の仕事はこれ」「これに対する評価はどれ」といった、個人主義的な傾向があります。それだけに、当社が伝統的に大事にしてきた「働く仲間とともに繁栄する気持ち」を彼らにも共有してほしいと思ったのです。「会社全体や自分の属するチームのために、仲間と一緒に会社の繁栄を考えることが大事なんだ」、それが「グッド・ピープルの集団であるこのカンパニーなんだ」ということを理解し実践してほしいと願っています。

「この手で守る自然と資源」は、アサヒウェイよりずっと古く、40年前に生まれたスローガンです。当時は銀のリサイクル事業に廃棄物処理が加わり、環境保全事業が拡大しつつあったころでした。我々は社会にとって大事な仕事をしているのだから、社員に誇りを持って仕事をしてもらいたいと思い、会社のスローガンを全社員から募集しました。そのときに、一社員が提案したのが、この標語です。それ以来、今日まで使い続け、我々にとっては合言葉のようになっています。

SDGsの実現を目指して

2015年に国連で「SDGs(持続可能な開発目標)」が採択され、世界共通のゴールが掲げられました。SDGsを貴社は重視されていますね。

SDGsは、我々の事業と密接に関係しています。我々の事業そのものがSDGsの取組ですから、日々の仕事に励むことでその役割を果たしていると思います。しかし、プライベートな面でも、一人ひとりの社員がSDGsを意識し、自主的に行動してほしいのです。当社は3年に一度全社員を集めて社員総会を行うのですが、今年の社員総会では、社内表彰制度として「アサヒホールディングスSDGs大賞」を新たに設けることを発表しました。個人の活動としてのSDGsの取組を促し、3年後の社員総会で表彰する予定です。

SDGsの17の目標の中には、教育や貧困等、我々の事業を通してだけでは取り組み難いテーマもあります。7年前、私は保有していた自社の株式を売却して財団を設立しました。この「寺山財団」では、ミャンマーの孤児院に甲子園球場の8倍近い大きさの水田を寄付しました。その後もボランティアの作業をサポートするためのトラクターを購入したり、子どもたちがゆっくり食事できる食堂をつくったり、といった支援を続けています。

貧困というテーマに取り組まれているのはなぜですか。

それは、やはり北朝鮮から苦難の末に引き揚げてきた経験があるからですね。1946年に日本へ帰ってきて70年以上たちましたが、自分ができることで少しでも社会に還元したいとの思いがあります。「寺山財団」のテーマは「教育」で、ほかにも日本での教育関連支援事業を行っていますが、500人以上を収容しているミャンマー孤児院の場合は貧困の解決が先決でした。「衣食足って礼節を知る」ですからね。

38度線を自分の足で越えられたという原点は、会社の経営にも影響しているのでしょうか。

経営というより、生き方そのものに影響していると思いますね。母親と幼いきょうだいみんなが無事に日本へ帰ったことは奇跡だと思います。あのときに死んでいたかもしれないと思うと開き直れますし、何事にも挑戦できます。大手企業を辞めて社員20人の会社へ入る踏ん切りをつけられたのも、開き直りの精神が根本にあったからだと思います。

会社の経営では、「これはダメだ」と思ったらすぐに引いて、次にチャレンジして新しいことに取り掛かる。先がないと思ったら、現状が黒字でも勇気を持って撤退してきました。事業の環境を常に考えながら、ダメだと思ったら撤退を決心するのは経営者としては当然のことです。社員はそれぞれの人生がありますから、彼らのためにも会社は継続するだけでなく成長しなければなりません。社員が働きがいのある仕事、働きがいのある職場で頑張り、その結果として会社が成長する。会社が成長し処遇に反映するから社員が頑張る。このようなよい循環を続けるためには、会社は事業環境に応じて変革していかなければなりません。そして、変革によって起こるさまざまな問題に対して、果敢に挑戦しそれを克服してこそ、会社は持続的に成長することができます。

【聞き手】三井住友銀行経営企画部 CSR室長 末廣 孝信
日本総合研究所シニアマネジャー 井上 岳一

PROFILE

寺山 満春(てらやま みつはる)

寺山 満春(てらやま みつはる)

1964年東京大学経済学部を卒業後、株式会社クラレへ入社。
1973年にアサヒプリテック株式会社へ入社。
1981年アサヒプリテック株式会社代表取締役社長、
2009年アサヒホールディングス株式会社代表取締役社長、
2011年アサヒプリテック株式会社取締役会長、
2014年アサヒホールディングス株式会社代表取締役会長兼社長に就任。
2018年4月より現職。

会社概要

会社名
アサヒホールディングス株式会社
創業
1952年
本社
兵庫県神戸市中央区加納町4-4-17(神戸本社)
東京都千代田区丸の内1-7-12(東京本社)
資本金
77億9,000万円
代表者
代表取締役会長 寺山 満春
代表取締役社長 東浦 知哉
事業内容
貴金属事業、環境保全事業、ライフ&ヘルス事業
URL
https://www.asahiholdings.com/