労働力人口の減少と高齢化という課題に直面する日本において、生産性の維持・向上は急務だ。こうした状況下、企業の持続的成長の基盤として「人的資本」の重要性が増している。日本では2023年3月期決算から人的資本に関する情報開示が義務化され、多くの企業が経営変革に着手した。しかし、その投資の多くはリスキリングといった人材育成に偏っており、従業員の心身の健全性、すなわちコンディション管理への取組はまだ十分に進んでいない。その背景には、従業員のコンディション改善が企業業績に与える影響を定量的に測定することが難しく、経営層の投資判断につながりにくいという構造的な課題が存在する。
この課題に対し、三井住友銀行(以下、SMBC)は、あるアプローチに着目した。それは、株式会社ユーフォリアが持つトップアスリート支援の知見を応用し、従業員のコンディションと企業業績の関連性を可視化することだ。SMBCはユーフォリアとの提携を通じ、このアプローチを実践することで人的資本経営の高度化を支援する取組を開始した。
アスリート支援の知見を
応用し、コンディションと
生産性の関連性を可視化
2024年12月、SMBCはユーフォリアとの業務提携を締結した。ユーフォリアは、多くのアスリートを支えてきたコンディション管理システム「ONE TAP SPORTS」を提供するスポーツテック企業だ。今回の提携は、その知見を一般法人の従業員のコンディション管理・改善に応用したサービス「ONE TAP SPORTS for Biz」が核となった。
このサービスは、少子高齢化のなかで人手不足が深刻な建設・物流といった労働集約型産業への提供を主眼に置く。身体的コンディションが生産性に直結しやすい現場作業員は、アスリートとの共通点も多いことから、ユーフォリアは彼らを「産業アスリート」と位置づけ、そのパフォーマンス向上を支援する。
サービスの最大の特徴は、従業員のコンディションを可視化し、企業の経営指標に紐づける点にある。アプリやウェアラブルデバイスを通じて収集した睡眠や疲労度といった日々のデータを基に、WHO提唱の「プレゼンティーズム(心身の不調による生産性低下)」の考え方で、コンディション不良による生産性損失を金額換算する。これにより、従業員のコンディションと経営インパクトの相関が、客観的なデータとして示される。ユーフォリア 代表取締役 宮田 誠氏は、このアプローチの本質を「単にデータを可視化するだけでなく、アスリート支援で培った専門的な知見に基づき、具体的な改善策の提案と実行までを一貫して行うことで、実効性のあるサイクルを回せる点にあります」と説明する。
取組を推進したSMBC 社会的価値創造推進部 星野 央継は、この仕組みと金融を連携させることに大きな可能性を見出していた。星野は、着想の背景について次のように語る。
「コンディションが生産性に直結することをデータで可視化し、改善につなげる。この考え方を応用すれば、企業の人的資本投資の効果を測る新たなKPIを設定できる。KPIさえ設定できれば、それは一気に金融の世界に結びつき、取組の世界観が大きく広がっていくと考えました」
実証と対話を通じた
合意形成と
パートナーシップの深化
この構想の実現に向けて、乗り越えるべき課題もあった。特に重要だったのは、行内、とりわけ経営層の合意形成だ。「従業員のコンディションと企業業績が結びつく」という考えは、従来の財務指標を中心とした意思決定において、すぐにはその重要性が認識されにくかった。
この課題に対し、星野が率いるチームは二つのアプローチを取った。一つは、客観的なデータや事例に基づく説明だ。ユーフォリアが持つトップアスリートの支援実績に加え、建設業の株式会社奥村組と行った実証事例を提示。建設現場において熱中症を予防することが、数千万円規模の工事遅延による損失回避につながる可能性を示し、コンディション管理の有効性を説明した。
もう一つは、サービスを実際に体験する機会を設けた点だった。SMBCの役員や部店長など約30名を対象に、ユーフォリアの睡眠改善プログラムを導入した。参加者自身の睡眠パターンがデータで可視化され、専門家から個別の改善アドバイスを受けることを通じて、コンディション管理の重要性への理解を深めた。
こうした取組の推進には、パートナーであるユーフォリアとのビジョン共有も不可欠だった。宮田氏は星野との対話をこう振り返る。
「星野さんは、提携に向けた対話の当初から一貫して、本質的に世の中に対してインパクトがあること、そして社会的価値につながることを実現したいと語っていました。また、課題解決においては金融の力を組み合わせ、効果が見える形で取り組むという、その姿勢にも深く共感しました」
金融・非金融両面から
行動変容を促進、
従業員の
コンディション管理が
「投資」になる社会へ
本取組の当面の目標は、「ONE TAP SPORTS for Biz」の導入を拡大し、人的資本投資の有効性を示す先行事例を創出することだ。そして、将来的には、金融の仕組みを通じて企業の行動変容を促すことを目指す。具体策の一つが、従業員のコンディションを企業のKPIとする「サステナビリティ・リンク・ローン」の開発・提供だ。これは、企業が設定したKPIの達成度に応じて融資金利が変動する仕組みで、脱炭素分野ではすでに普及している。この仕組みを人的資本の領域に応用し、例えば「従業員の睡眠スコアの改善」や「腰痛によるプレゼンティーズム損失額の低減」といった目標を達成することにより、インセンティブが発生する仕組みの構築を目指している。
また、本取組で得たデータを活用し、お客さまの人的資本に関する情報開示を支援することも視野に入れている。こうした金融・非金融両面からの支援を通じて、企業の健康投資への動機づけを行い、持続可能な社会の実現を目指していく。宮田氏は、この取組が持つ社会的な意義を、強い使命感とともに語る。
「社会のインフラを支えるのは、私たちが『産業アスリート』と呼ぶ現場の方々です。彼らは、今後AI化が進んでも代替が難しい重要な労働力であり続けるでしょう。だからこそ、労働力不足が今以上に深刻化する前に、彼らを支える仕組みを構築しなければなりません。この取組を広げられるかどうかは、日本の社会の未来に関わるという、危機感と責任感を持って臨んでいます」
ウェアラブルデバイスの一例
そして、星野が目指すのは、取組を通じて経営の常識そのものを変えることだ。従業員一人ひとりの活力が企業の成長を支え、ひいては少子高齢社会における日本の生産性向上に貢献する未来。その実現への想いを、星野はこう語る。
「この取組を通じて、言葉だけではなく真に従業員が『資本』として捉えられるようになれば、従業員のコンディションを維持・向上させることが『投資』になる。そんな世界へと、私たちは変えていきたいと考えています」